白玉

第一京浜、首都高、そしてJR線に挟まれ、ちょうど真四角といった感じになっている浜松町二丁目の下半分に当たる場所は明治期には芝新網町という名前で、四谷鮫河橋(現在の新宿区南元町辺り)、下谷万年町(現在の上野郵便局周辺)と共に東京の三大貧民街の一つだった場所である。 新網町というくらいで江戸の初期に網干場として開かれた漁村だったようだが、江戸の中心へのアクセスの良さやらもあり、早いうちから町人達の流入があったらしい。問題はその流入してきた町人の素性。近くの増上寺を追い出された破壊坊主を皮切りに、願人坊主を中心とした当時は身分的に最下層とされた芸能系の人々が多く住み着くようになっちゃったのだ。当然ながら貧しい彼らが集まってくれば街の色もソッチ寄りとなる。 といった流れで江戸の頃からソコソコな貧民街ではあったらしいんだけど、仏教的施しと共に「宵越しの銭は持たない」なんつってなんとなく生きて行けた時代である。まして彼らも当時は(最下層とはいえ)社会制度の中に組み込まれていた人々だ。そんなわけで、漁民のルーズな開けっぴろげさと芸能民のしたたかな明るさを併せ持つ、貧乏ではあるけれどある種の風通しの良さがある街だったようである。 それが暗い色調に変わるのは明治維新。それまでの社会制度が崩壊したことによりその下層で生暖かくそれなりに暮らせていた人々が全て貧民となってしまったのだ。彼らが流れこむのは当然のように都市部のルーズで入り込めそうな場所ってことで、芝新網町は明治に入ってから本当の意味での貧民街になって行ってしまう。そして、新政府が作った海軍関係の施設から残飯を運び込みやすい立地にあったことから三大貧民街の一つとして完全に固定化していくのである(ちなみに四谷近辺は陸軍関係の施設が多かった)。 明治の三大貧民街は関東大震災で完全に崩壊する。そして貧民達は北は南千住・三河島・日暮里、南は品川・大崎・大井町という当時の郊外、というか場末へ移動していくことになるのである(人口的には北が圧倒的)。